世界は何にも変わらないけど

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080918/170944/
思わずグローブを手に取りたくなった。というわけで色々思ったことを徒然に書いていく。

しかし、それでもこの頃は、言葉による説明を要求する人たちもいるから困ったものだという。「感覚の世界」が言葉で説明可能と考えるのは、口先だけでわかったつもりになる情報化社会の特質でもあると。

昨日テレビ東京の「みゅーじん」を見た。今回のみゅーじんは、チェリスト古川展生氏。楽器を通して他の人とコミュニケーションをとれるのなら、チェロ一本で世界中をまわる、という言葉を聞いて、あぁほんとうだな、と思っていた。楽器なんて自己満足じゃないのかと思ったときとか、楽器に想いを載せるってなんだろうと思ったときとか、いろんなことが駆け巡って、駆け巡りすぎて、言葉に出来なかった。私は音楽に関わる仕事をしているわけではないけれど、それでも「あなたにとって音楽って何ですか?」と聞かれたら、答えに窮してしまうであろうことは想像がつく。自発的に始めたわけではなかったけれど、今となっては他が考えられない、思いと体と言葉がごっちゃになってしまう感覚で、結局言葉にできないから。感覚を言葉にして伝える努力は行うけれども。

別に世界が変わるわけではない。昨日と同じようにお天道様が昇る。変わったのは世界ではない。自分である。世界を見ている自分が変われば、世界は変わる。その体験を一度でもすれば、知ることの意味を知る。私はそう思う。

あぁ、もう完全に養老節だ。唯脳論を読んだころから、涼しい脳味噌を読んだころから、世の中から一歩引きながら厳しいことをスパスパ言う養老節が大好きだ。世の中を体感しろ、知ることで自分が変わる、世界の見え方が変わる、世界は全く変わって無くても、自分にとっての世界は変わる。良くも悪くも物事を知ることで世界の見え方が変わる。例えば、大好きな彼だったのに、唾棄すべき一面を見たことで全く違う人に見えることがある。これって自分の見え方が変わっただけで彼自身は何にも変わってない。たとえばそういうことだ。
この本は読んでみたい。さらにボールを持って薀蓄を語りたくなる、そんな気持ちになりたい。なんて本かは日経BPを見ていただくことにして、今回は養老節にはまった本をご紹介いたします。

続・涼しい脳味噌 (文春文庫)

続・涼しい脳味噌 (文春文庫)